2014年05月26日

群山紀行-吉三郎さんの暮らしぶり-14

つづき

1階に戻って廊下沿いに一回りして、玄関から庭に出てみた。


1階も2階も、日本家屋ならではの雨戸の戸袋も。




奥の方へ回ってみると蔵のような建物があった(▼)。一見、独立した建物に見えるが外部にドアはない。家の廊下にあるドアからしか出入りできないようになっている。内部には階段があり2階建て。案内板には「金庫」 と書いてあったが、貴重品を保管する蔵として使われていたのだろう。


家の裏手には井戸も残っていた(▼)。


家の裏側(▼)。


お勝手口(?)(▼)。


裏手には物置として使われていたと思われる建物も(▼)。


また裏手には塀で囲まれた敷地があり、そこに小さなプール(?)のような施設があった(▼)。そこに居合わせた韓国人見学客は 「家にプールまであったなんてすごいわね」 と話していたが、これが広津家のものだったのかは不明。


来年で築80年となる旧広津家屋。朝鮮人から慕われていたという広津吉三郎さんの暮らしぶりに、しばし思いをはせた。

つづく  

Posted by dilbelau2 at 20:23Comments(0)群山

2014年05月26日

群山紀行-旧広津家屋-13

つづき

さて、東国寺を後にした私たちは 「新興洞(シヌンドン)日本式家屋(旧広津家屋)」 を訪ねた。山口県出身の広津吉三郎さん(1878~1949)が建てた家だ。映画 『장군의 아들』(将軍の息子)や 『타짜』(タッチャ イカサマ師)などの撮影にも使われたそうで、2005年には登録文化財第183号に指定されている。


この時点で17時過ぎと、18時の閉館時間が迫っていたが、かなりの数の見学者が訪れていた。連休だったので、ここもいつもより来場者が多かったのだろう。玄関(▼)。


靴の数もこの通り(▼)。見学途中、日本語は聞こえてこなかったので、ほぼ全員が韓国人だと思っていたが、一部、脱いだ靴の向きが直されているところを見ると、日本人もいたのだろうか。


広津吉三郎さんは米穀貿易商で財をなした人物として知られているが、群山に移住する前は釜山で暮らしていたと聞き、親近感がわいた。釜山では薪炭業を営み大繁盛していたが、大火で店を焼失し、それを機に群山に移ったそうだ。釜山には通算8年ほど住んでいたようだ。

その後、日露戦争に徴兵され、除隊してから朝鮮人と一緒に米穀貿易商を始めた。ここでも商才を発揮し大成功したが、1934年に 「米穀統制法」 ができて米の自由販売ができなくなったことから廃業、聖山面(ソンサンミョン)で農業経営を始めたそうだ。

翌1935年、新興洞の家が完成。しかし10年後に終戦を迎え、家を残して引き揚げることになった。そして帰国から4年後の1949年、山口県で71歳で病死したそうだ。

玄関から入って左の方には、庭を囲むように廊下が延びている(▼)。


廊下の天井や照明器具など、細かいところにも趣向が凝らされている。



廊下からは木々や灯篭などがある庭がよく見える。


廊下の突き当たりには畳の間(▼)。


畳の間の前から見た庭(▼)。


畳の間に行く手前には広いオンドル部屋もあった。今でこそ日本でも床暖房が珍しくなくなってきたが、約80年前にすでに現地の暖房設備を取り入れていたとは。オンドル部屋には大きな押入れもあった。

2階に上がる階段(▼)。当時から、階段下(1階)でつけた電灯を2階でも消すことができる最新式の設備になっていたそうだ。


2階の畳の間(▼)。


2階の廊下で文化解説士(?)から説明を聞く韓国人(▼)。



つづく  

Posted by dilbelau2 at 08:41Comments(0)群山

2014年05月25日

群山紀行-唯一残る日本の寺-12

つづき

やがて、ギャラリーなどアート関連の建物が並ぶ路地の先に、東国寺があった。


入口の石柱には 「昭和九年六月吉祥日」 と刻まれていたが、そのうち 「昭和」 という部分はつぶされていた(▼)。解放後につぶされたのだろう。


この日は5月3日。釈迦生誕日(陰暦4月8日=今年は5月6日)に近かったので、境内にはたくさんの燃灯が吊るされていた。


群山文化観光HPによると、

東国寺は群山市錦光(クムグァン)洞にある日本式寺院。植民地時代、韓国で建てられた日本式寺院は(解放後に)ほとんど取り壊されており、韓国に現存する唯一の日本式寺院だ。華やかな装飾が施されている韓国寺院とは違い、装飾のない大雄殿(本堂)・軒や、窓の多い外壁が日本式寺院の特徴を示している。大雄殿は2003年、登録文化財第64号に指定された。

東国寺は、日韓併合の1年前の1909年、鳥取県の曹洞宗僧侶・内田佛観という日本人僧侶によって開設された布教所が始まり。4年後の1913年 「錦江禅寺」 という名前の寺が創建された。当時、建材は全て日本から運びこんで建てたと言われている。

主な建物は大雄殿・僧侶が寝起きする 「寮舎」・鐘楼の3つ。1945年の解放後は新政府に移管され、1955年に全羅北道宗務院が買い取り、その後1970年にキム・ナムゴッ僧侶が寺の名を 「東国寺」 と変え、今日に至る。東国寺は大韓仏教曹渓宗第24教区本寺 「禅雲寺」 の末寺。大雄殿(▼)は、寮舎と廊下でつながっており、日本の江戸時代の建築様式で建てられている、とのこと。



本堂の内部にもたくさんの燃灯が(▼)。東国寺の本尊・釈迦三尊仏像は、文禄・慶長の役の頃のものだそう。全羅北道有形文化財第213号。


本堂の一角では、「3・1節第95周年記念 東国寺 侵奪史料館 第3回企画展」 として 「苦々しい記憶、神社と無断統治 朝鮮明堂には神社があった」 という展示会が開かれていた(3/10~6/30)。企画展のタイトルにある 「明堂(ミョンダン)」 とは風水で非常によいとされる場所のこと。

植民地支配や戦争に関するありとあらゆる史料が展示してあった。東国寺の 「侵奪史料館」 には、東国寺所蔵の史料と、青森県・曹洞宗雲祥寺の一戸彰晃住職が朝鮮侵略に対する懺悔の意味を込めて寄贈した史料、合計約5,000点があり、今回の企画展ではその中の約300点が展示されているそうだ。




韓国の人がこういうのを見ると、「日本=軍国主義」・「右傾化」 というイメージが一層強くなるんだろうなと。

ちょうど、文化解説士と思われる人が来場者(韓国人)に展示内容について説明していて、さすがに日本語で話せる雰囲気ではなかった。もっとも話したところで韓国人から何か言われたとは思わないが、雰囲気的にちょっと・・・。

本堂の一角では、白黒の古い記録映像が流れていてなかなか興味深かった。いつ頃の映像かよく分からなかったが、昔の朝鮮の人々の生活像などを垣間見ることのできるものだった。

梵鐘は京都の名匠・高橋才治郎の作だそう(▼)。


鐘楼のそばの鉄骨には黄色いリボンがたくさん結びつけられていた。セウォル号沈没事故の犠牲者に対する哀悼の気持ちを書いたリボンだ。


また境内には、日韓対訳の 「懺悔文」 が刻まれた石碑が建っていた。


「われわれ曹洞宗は、明治以後、太平洋戦争終結までの間、東アジアを中心にしたアジア地域において、海外布教という美名のもと、時の政治権力のアジア支配の野望に荷担迎合し、アジア地域の人びとの人権を侵害してきた。また脱亜入欧のもと、アジアの人びととその文化を蔑視し、日本の国体と仏教への優越感から、日本の文化を強要し、民族の誇りと尊厳性を損なう行為を行ってきた。しかも仏教の教養にももとるようなこうした行為を、釈迦牟尼世尊と三国伝灯の歴代祖師の御名のもとに行ってきた。まことに恥ずべき行為というほかない。
 われわれは過去の海外伝道の歴史の上で犯してきた重大な過ちを率直に告白し、アジア世界の人びとに対し、心からなる謝罪を行い、懺悔をしたいと思う。」(以下、略)などと刻まれていた。

つづく  

Posted by dilbelau2 at 21:05Comments(0)群山

2014年05月25日

群山紀行-行列のできるパン屋-11

つづき

そしてもう少し歩くとやがて、噂のパン屋 「イソンダン(李姓堂)」 に行き当たった。創業1945年という老舗。それ以前は日本人が経営する菓子店があったそうだ。現在、大田(テジョン)の 「ソンシムダン(聖心堂)」、全州(チョンジュ)の 「PNBプンニョンチェグァ(豊年製菓)」 と共に、全国3大パン屋の1つとされている。

聞いていた通り、すごい行列だ。1日1万個も売れるというこの店一番人気のあんパンや野菜パンを買うための列なのだそう。こんなに並んでも買いたいと思うほどのあんパンの味とはいかに・・・。


私たちもあんパンを買って翌日の朝食にしようかと思っていたが、この行列を見て諦めた。他においしそうなパンがあればと店に入ってみたが、店内も大変混みあっていてムンムンしていた。4連休のさなかだったので、普段より客が多かったのだろう。


あんパンと野菜パンが店頭に並ぶ時間が表示してあった(▼)。次は16時30分だそう。この時点で16時過ぎ。パンが並ぶ時間を狙って、長い行列ができていたというわけだ。果たして並んでいる人たちは全員、あんパンを手に入れることができるのだろうか。


売り切れのパンも多いのか、陳列台もガランとしている部分が多い。あまりの人混みに購入意欲も失せ、早々に退散した。



イソンダンを後にして、私たちはさらに南へ。「東国寺」(トングッサ)という日本式の寺に行ってみることにした。この辺りは碁盤の目のように整備されているので、気持ちいいほどまっすぐな道が多い。


途中見かけた銭湯(▼)。店構えが独特。


あちらこちらで日本家屋と思われる建物を見かける。


これらは고우당(古友堂=コウダン)というゲストハウスの近くにあった食堂やカフェ(▼)。





つづく  

Posted by dilbelau2 at 08:32Comments(0)群山

2014年05月24日

ビーチと選挙運動

今日は湿度が高めなのか、最高気温が24~25度というわりにもっと暑く感じた。ビーチにも大勢の人。順天(スンチョン)湾のアシを使ったパラソルも、たくさんの人が利用していた。


テントを張って潮風を楽しむ人や、すでに水着で日光浴・ビーチバレーを楽しむ外国人、ウィンドサーフィンやカヤックを楽しむ人など。



ビーチ沿いにはいつの間にか風船割りの店と、以前南浦洞でも見かけたアイスを売る店ができていた。南浦洞では 「」(ポン)という名前だったが、ここのは 「지팡이(チパンイ=杖)アイスクリーム」 となっていた。


また、ビーチ沿いには6月4日の全国同時地方選挙のPRブースが出て、市民に投票を促していた。


金色の衣装を着たPR員が、「賢明な有権者はまず政策と公約をしっかり確認します」 というプラカードを持って歩いていた。カメラを向けると立ち止まってポーズしてくれる。


海を眺めていたカップルにも、PRブースを指差し(ブースに行くようにと)無言の圧力をかけていた。


ビーチにも、6・4地方選への投票や事前投票を呼び掛ける旗が立てられていた。


選挙前になると選挙カーや街頭演説などで街が騒々しくなるのは韓国も日本も同じだが、今回の6・4地方選に限っては、セウォル号沈没事故がまだ収束していないこともあり、どの候補者も派手な選挙活動は控えている。

大きな交差点や人通りの多い所に、テーマカラーのお揃いのチョッキやジャンパーを着た運動員が並んで立ってはいるが、声は出さず、ただお辞儀したり手を振ったりするだけ。

選挙カーもたくさん見かけるが、いつものように音楽(テーマソング?)を大音量で流しながら音楽に合わせて運動員が踊る様子は見かけない。もちろん遊説時はそれなりに騒がしいが、いつもに比べると静かな選挙運動だ。とてもありがたい。今後の選挙もこういうふうにしてくれたらいいのになと。


  

Posted by dilbelau2 at 17:09Comments(0)広安里時事話題

2014年05月24日

群山紀行-今も残る日本家屋-10

つづき

旧朝鮮銀行や旧第十八銀行の近くには 「近代歴史博物館」 や 「旧群山税関」 もあるが、そこは翌日に訪ねることにして、私たちは群山内港から南(南西)へ歩いてみた。この辺りは1899年に日本人入植者により区画されたエリアで、通りが碁盤の目のようにまっすぐに整備されており、あちこちに日本家屋が残っている。当時は2,000棟ほどあったそうだ。

最盛期(1934年)にはこの旧市街地に日本人が約9,400人と、当時の群山市在住の全人口の3分の1以上を占めていたそうだ。

1階部分がコンビニになっている日本家屋(▼)。以前はファミリーマートだったようだが、現在はミニストップ。2年ほど前にファミマの名前が 「CU」 に変更されたのに伴ってこの店舗も 「CU」 となり、その後ミニストップに変わったようだ。ファミマもミニストップも日本のコンビニというのは面白い偶然だ。



こちらも古い日本家屋のようだ(▼)。


「사가와 COFFEE」(佐川コーヒー)というカフェ(▼)。以前は 「사가와 홍차가게」(佐川紅茶店)という紅茶専門店だったが、今年4月からコーヒー店に変わったそうだ。案内板によると、商号の 「佐川」 は金庫製作会社 「佐川金庫」 から命名されたそう。


店舗のそばには日本庭園と古い日本家屋が残っていると聞いていた。日本庭園前の門越しに様子をうかがっていると、コーヒー店の店主が出てきて 「どうぞ(店内を通って)日本庭園に出て、ゆっくり見ていってください」 と言ってくれたのでお言葉に甘えて。

立派な庭だ。チンダルレ(ツツジ)が目に鮮やかだった。庭の向こうに見えている建物は1900年から40年間、質屋として使われていた日本家屋と倉庫で、当時の金庫も保存されているそうだ。




日本庭園を見学していると、ちょうど居合わせた家族連れの韓国人が 「どこからいらしたんですか」 と気さくに声をかけてくれた。ここ群山の方だそうで、やはり言葉は釜山のそれとは全然違ったが、まだ40代くらいだったからか、とても聞き取りやすかった。「さっき이성당(イソンダン)(有名パン屋)に寄ってみたけど、とても人が多くて店に入れなかったよ」 と。私たちも後で行こうと思っていると言うと 「あんパン以外を買うなら並ばずに店に入れるけど、あんパンの行列はすごかったよ」。

「では、よい1日を」 とそのご家族とは別れ、私たちも店主にお礼を言ってコーヒー店を後にした。店内はすっきりしたインテリア(▼)。


つづく  

Posted by dilbelau2 at 08:40Comments(0)群山

2014年05月23日

群山紀行-96歳のハ画伯-9

つづき

さて、旧十八銀行群山支店(群山近代美術館)のお隣にも日本風の建物があった。この建物は1930年代に建てられ、日本の 「ミズ商社」(?)という貿易会社として使われていたそうだ。以前は近代歴史博物館正面にあったが、2012年、現在の場所に移転、カフェに改造されたそう。その名前も 「ミズカフェ(미즈카페)」。

案内板によると、この一帯は1910年から1945年まで米の収奪の拠点になっており、日本人の貿易会社や商業施設がたくさんあったそう。


建物裏手にも出入り口があった(▼)。2階は畳の間になっていて、ブックカフェのように本がたくさん置かれているそうだ。大勢の客で賑わっていた。


「ミズカフェ」 の裏手にも似たような建物が並んでいた。こちらは 「蔵米ギャラリー」(▼)。この建物は植民地時代に建てられたもので、当時の具体的用途は分かっていないという。解放後、娯楽施設として使われていたものを、2012年から群山市が補修・改装し、2013年に体験学習場(1階)と美術展示空間(2階)としてオープンしたそうだ。

ギャラリーの名前は 「収奪した米の蔵」 という意味を込めて 「蔵米ギャラリー」 としたそうだ。1階は、コースターや匂い袋、草木染めによるハンカチ作り体験などのプログラムを運営している。


2階の展示空間には、ここ群山出身の画家ハ・バニョン(河畔影)さんの作品が展示されていた。


ハ・バニョンさんは1918年、群山で生まれ、植民地時代は満州や中国、チベット、台湾などで過ごし、解放後、ヨーロッパやアメリカで勉強したそうだ。帰国後はソウルや全州(チョンジュ)で活動し、90歳代で故郷の群山に戻り、現在も精力的に画家として活動している方だそう。現在96歳、韓国最高齢の画家だそうだ。

ハ画伯のアトリエを再現したコーナーも(▼)。


「蔵米ギャラリー」 の近くには 「蔵米公演場」(▼)という建物もあったが、この日は開放されていなかった。案内板によると、1899年5月1日の群山港開港後、群山は湖南地域の土地や米の収奪の拠点港となった。米蔵を表す장미동(蔵米洞=チャンミドン)にあるこの建物は、1930年代 「朝鮮米穀倉庫株式会社」 が収奪した米を保管していた倉庫を補修・改装し、2013年2月オープンした公演場(77席)だそうだ。


このように、日本統治時代の銀行などの建物が建築館や美術館などに補修・改装されたのは、2009年から推進された 「近代産業遺産活用芸術創作ベルト」 事業によるもの。群山近代建築館・群山近代美術館・ミズカフェ・蔵米ギャラリー・蔵米公演場の5つの施設を整備するのに、約105億ウォンの予算が投じられたそうだ。いわゆる 「負の遺産」 はこうして 「近代文化歴史遺産」 に生まれ変わった。

それにしても、どの施設の説明でも 「日本による米の 『収奪』 の拠点」 だったことが強調され、植民地時代の日本に対する感情とその強さがまざまざと感じられるエリアだった。

つづく  

Posted by dilbelau2 at 20:38Comments(0)群山

2014年05月23日

群山紀行-旧十八銀行-8

つづき

旧朝鮮銀行群山支店(群近代建築館)の次は、すぐ近くの旧十八銀行群山支店を見学。


旧長崎十八銀行は、長崎県に本社がある日本の地方銀行で、朝鮮では1890年に仁川(インチョン)に初めて開設された。仁川を皮切りに全国に支店を開設し、群山支店は1907年、朝鮮での7つ目の支店として建てられた。

この銀行は日本の植民地時代、日本へ米穀を搬出し土地を競売するために設立された金融機関。平屋建ての本館と、付属の建物2棟(倉庫・事務室)から成る。同時代の一般的な銀行の建築様式と同じく外観は閉鎖的で、部分的に人造石が使われている。植民地時代初期に建てられた銀行の特徴がよく表れている建物だ。

解放後は大韓通運の支店の建物として使われ、2008年2月28日、登録文化財に指定された。その後、補修・復元工事を経て現在は 「群山近代美術館」 として活用されている。(以上、群山市文化観光HPより)

中に入ると天井が高いのが印象的だった。この日は全北道立美術館所蔵品の巡回展 「먹의 숨결」 展が開かれていた(4/11~6/29)。


展示空間の端の方にはついたてで仕切りがしてあり、仕切りの向こうの小部屋にはこの建物の復元・補修工事の様子が展示されていた。

と、そこまではよかったのだが、そのついたての裏側に展示してあった写真を見て、また違和感を感じた。白黒の写真の中には残酷なものもあり、多数の遺体が並ぶ写真には 「日本人が虐殺した朝鮮人の遺体を眺める中国人」 という説明がついているものも。撮影された年や場所など写真に関する情報が書かれていないものも少なくなかった。


写真説明の中にはこれ本当かな?と思うようなものも。展示されていた写真が全てでたらめだとは言わないが、私がいぶかしく思ったのには理由がある。以前、陜川(ハプチョン)映像テーマパークに行ったとき、園内の建物で開かれていたある写真展で、やはりこういった写真が展示されていた。その中に、さらし首の場面を撮った写真があったのだが、その説明として 「日本には昔、家の門に生首を吊しておく慣習があり、古くからその残忍性が認められた」 という趣旨の文が書かれていたのだ。誰がそんな荒唐無稽な説明を書いたのか分からないが、それを読んで信じる韓国人も少なくないだろう。事実ではないことにより誤った認識を植え付けることもあるのだから、もっと慎重になってほしいものだと思ったし、あるいははじめから、ある意図があってそういう写真を展示、説明書きをつけているのではないかと疑りたくもなる一場面だった。

そういう経験もあったので、この建物に展示されていた写真を見て正直 「またか」 と感じた。「群山近代建築館」(旧朝鮮銀行)と同様、「群山近代美術館」(旧十八銀行)として活用されている建物に、こういう写真を展示する必要があるのかという 「またか」 と、いたずらに日本人に対するネガティブな感情をあおるような写真を展示していることに対する 「またか」 だ。

こういう情報にさらされていたら、日本や日本人に対しどういうイメージが形成されるか、目に見えるようだなと。

つづく  

Posted by dilbelau2 at 08:58Comments(0)群山

2014年05月22日

群山-疑問-7

つづき

1階には他にも古い資料がたくさん展示されていた。朝鮮総督府が編纂した国語の教科書(▼)。


大邱(テグ)地方法院(裁判所)の創氏改名に関する書類(▼)。


児童用の皇国臣民ノ誓詞(▼)。


愛国貯蓄通帳(▼)。説明書きには、「日帝(日本帝国)は戦争資本を用意するため、愛国貯蓄通帳という名目で朝鮮民族の金融資本を収奪していった」 と書かれている。


この一角に展示されていたのは、いずれも植民地時代に日本人が建てた錦江寺(現・東国寺)の侵奪資料館の所蔵品のようだ(▲)。説明札の隅に東国寺の名が書いてあった。この翌日、東国寺を訪れたら、本堂で 「朝鮮明堂には神社があった」 という企画展が開かれていて、そこに似たような品がたくさん展示してあった。

こちらは古い写真を集めたコーナー(▼)。画面では植民地時代や独立運動関連に関する映像が流れていた。


この銀行の成り立ちに、日本とは切っても切れないものがあるので当然かもしれないが、予想外に植民地時代に関する展示が多いなと思いつつ2階(回廊)に上がると、こういう展示があった(▼)。米袋(?)を運んでいた朝鮮人が転倒し、日本の警官が袋を蹴りつけてさっさと運べと命じている場面だろうか。2階への階段を上りきったところにあるので、かなり目立つ。


2階の展示パネルには、当時、湖南(ホナム)平野でとれた米は日本(7割は大阪行き)に送られたが、毎年、その年の収穫量に関わらずほぼ一定の量を供出させられたため、農民は非常に苦しい思いをしたと書いてあった。この展示は、実際に警官が蹴飛ばしたかどうかは別として、そうされたと同じくらいの苦痛を味わったということを表現しているのだろうか。

それにしても強烈な展示だ。視覚に訴えかけるので印象も強い。

歴史を後生にどう伝えるかは他国の人間が口出しすべき問題ではないと思うが、「群山近代建築館」 として活用されている建物に、ここまで展示する必要があるのだろうかと少し疑問も感じた。この疑問はこの後も何度か感じることになった。

さて、2階には植民地時代を含めた群山の歴史などが展示されていた。


昔の電話の受話器を通して、展示についての説明を聞くこともできる。最近、韓国で大流行のストーリーテリング形式だ。


2階には、群山に残る古い建築物の模型なども多数展示されていた。「旧広津家屋」 の模型(▼)。


2階から1階を見下ろしたところ(▼)。1階の床には巨大なタッチパネルが設置されていて、指でタッチする代わりに足で踏むと画面が反応する仕組みになっていた。一定の時刻になると映像が上映されるそうだ。


つづく  

Posted by dilbelau2 at 20:34Comments(0)群山

2014年05月22日

群山紀行-旧朝鮮銀行-6

つづき

鎮浦海洋テーマパークを後にした私たちは、すぐ近くにある旧朝鮮銀行群山支店へ。赤レンガの建物が印象的だ。この時は入場無料だったが、今年7月からは有料になるそうだ。


この建物は、日本の植民地時代の金融施設として1923年に建てられた。赤レンガ造りの2階建て(高さは4階建てに相当)で、当時、韓国で活動していた代表的な日本人建築家・中村與資平が設計した。

群山の近代史を示す象徴的な建物として、植民地時代の群山を背景に書かれたチェ・マンシクの小説 『濁流』 にも登場する。

旧朝鮮銀行は1876年の開港後、1879年に釜山に初めて進出した日本の 「第一国立銀行」 がその前身。これを1909年、大韓帝国の国策銀行として設立された旧韓国銀行が引き継いだ。植民地支配が始まってからは総督府によって朝鮮銀行と改称され、朝鮮総督府の直属金融機関の役割を果たした。解放後、朝鮮銀行が韓国銀行に変わり全州(チョンジュ)に移転した後は、韓一銀行群山支店として使われていた。

旧朝鮮銀行群山支店は、植民地の金融機構の役割を果たしたという歴史的な意味があるだけでなく、建築物の規模や建築史的価値においても、群山を代表する重要な建物だ。

2008年に補修・復元工事を行い、現在は 「群山近代建築館」 として活用されている。(以上、群山市文化観光HPより)

内部は吹き抜けになっており、明るく開放的な雰囲気。


1階のよく目立つところに黒っぽい壁面のようなものがあった(▼)。


近づいてみると、1つ1つが顔だった。これは「民族の喊声」 という作品で、5千年の歴史の中で朝鮮民族のために尽力した各国の人物・キャラクターや、大韓民国の建国に貢献した独立有功者を表現したものだそう。


当時のレンガ壁が一部保存されており、ガラス越しに見ることができる(▼)。



同じく、保存されているコンクリートの柱(▼)。


当時の屋根裏もガラス越しに見られる(▼)。


館内ではさまざまな資料が展示されていた。朝鮮銀行の紙幣(▼)。


「第一銀行群山出張所」 の1908年7月の出勤簿(▼)。「第一銀行群山出張所」 は朝鮮銀行の前身で、1903年11月、群山で初めて建てられた銀行だ。同行は1910年の日韓併合以降、朝鮮銀行と名称を変えた。


朝鮮銀行群山支店の棟札(▼)。「奉上棟大元尊神家門長久守護所」 などと書かれている。


つづく  

Posted by dilbelau2 at 08:43Comments(0)群山