2014年05月11日

ピソクマウル 6

つづき

さて、案内標識通りに進むと、やがて先ほどまでと同じ 「碑石(ピソク)文化マウルこちら」 という小さな表示板があった。산상교회(サンサン教会)の少し手前だ(▼)。

ピソクマウル 6

このあたり(▼)。


矢印に従って階段を上がると、今度はまた別の表示板が(▼)。「치안올레길 셉테드 아미동 행복마을」(治安オルレキル CPTEDアミドン幸せ村)と書いてある。올레(オルレ)は済州(チェジュ)の方言で 「家に帰る細い道」 という意味。済州島にあるトレッキングコースの名前にもなっている。CPTEDは 「Crime Prevention through Environmental Design」(防犯環境設計)の略語。

ピソクマウル 6

階段の先には細い路地がくねくねと入り組み、住宅の塀や壁には壁画がたくさん描かれていた。ところどころに防犯カメラも設置されている。暗い雰囲気を一新し、犯罪の発生を未然に防ごうという取り組みのようだ。

ピソクマウル 6

ピソクマウル 6

路地を奥へと進むと、今度は斬新な(?)壁画があった(▼)。複数の(昔の日本人の)墓石を土台に塀が作られ、塀にも墓の絵を描いて墓石と一体化させ、墓地(?)を表現していた。

ピソクマウル 6

ピソクマウル 6

ピソクマウル 6

個人的には、墓石はこういうふうにアートの一部にしてしまわず、歴史を伝える遺物としてそのまま保存しておいた方がよかったのではないかと思う。重い歴史を持つ墓石と、軽い感じの壁画の組み合わせは違和感があった。

*碑石文化マウルについて関連記事

この壁画のそばには案内板があり、碑石文化マウルの由来が説明してあった。

ピソクマウル 6

かつて植民地時代、この辺り(アミドン山19番地一帯)には日本人の共同墓地があり、1945年の解放とともに日本人も引き揚げていったのだが、その際、多くの墓石が置き去りにされた。

その後、朝鮮戦争勃発(1950年)とともに、列車で釜山に到着した避難民たちは釜山駅一帯を中心に避難村を形成していった。アミドンの場合、16・17・18・19統一帯に集中的に避難民が定着しはじめ、共同墓地の石碑などは建築資材として使われた。家を建てるのに適当な材料がなかった当時、石碑や墓前に供え物を並べる台石などが、家の土台や階段をつくるための材料として活用されたのだ。今もアミドン一帯の階段や塀には当時、避難民が使った石碑があちこちに残っている。

韓国近代史の辛い時代を経て、この場所は 「死と悲しみの場所」 として後世に残されるかに見えたが、今は強い生命力で再び立ちあがった人々の痕跡だけが残っている。現在、西区庁の積極的な支援と住民たちの自発的な参加により、石碑という否定的なイメージから脱却し、都市再生や山腹道路ルネッサンス事業などにより、疎通と和合の希望的な明るい村へと変わっていっている。

この墓地を描いた壁の上の方には小さな小屋が建っており、「幸せ村 安心カフェ」 と書かれていた(▼)。警察のアミ派出所なのだそう。このときは無人だったが。

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派出所のそばには公衆トイレがあり、トイレの壁には 「この場所は住民の居住区域です。騒いだり大声を出したりするのはやめましょう」 と、韓・英・日・中国語で書かれた表示板があった(▼)。恐らく、観光客でごった返す「甘川(カムチョン)文化マウル」 のように、多くの観光客が訪れることも想定して書かれたものだろうが、この日私たちがこの辺りで見かけたのは住人らしき1人だけだった。

ピソクマウル 6

つづく


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