2014年05月12日

アミドンで思ったこと 8

つづき

さて、階段を上がっていくと、やがてまた車道に出た。車道に上がる少し手前にも、墓石が使われているのを見かけた(▼)。明治23年と書かれている。1890年だ。

アミドンで思ったこと 8

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付近には文字は見えないが墓石と思われる形の石がたくさんあった(▼)。

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階段を上って車道に出たところ(▼)。地面には碑石マウルの探訪路を示す矢印が書かれていた。

アミドンで思ったこと 8

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地図ではこのあたり(▼)。


さて、私たちは車道をまた下りて行った。途中、金物屋さんの前に、しぶいオブジェがあった。

アミドンで思ったこと 8

空き瓶やスプレー缶などを使ったアートだ。中には電卓や椅子の座面(?)なども。

アミドンで思ったこと 8

もう少し下ったところには、「부산밥상공동체・연탄은행」(釜山食膳共同体・練炭銀行)の建物があった(▼)。毎年冬が近づくと、必要とする家庭に練炭を配っている団体。ここは練炭の仮置き場など倉庫として使われているようだ。この辺りも都市ガスが通っていない(物理的にガス管を通すのが難しい)地域なのだろう。

アミドンで思ったこと 8

こちらは住宅前に置かれたバイクなのだが、階段を6~7段下がったところに停められている(▼)。どうやってあそこまでバイクを入れたのか、そしてどうやって階段の下からバイクを道路まで持ち上げるのだろうか。

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以前来たときにも見かけた記憶のある墓石(▼)。階段の一部になっている。

アミドンで思ったこと 8

アミドン散策は2回目だが、やはりこの辺りは観光地として開発するにはあまり向いていないように感じた。植民地時代の日本人が残した墓石が今も礎石などとして残っているというのは、歴史の遺物として貴重だと思うが、それを活用して甘川マウルのような観光地に、というのは難しい気がする。(どういう方向を目指しているのかは分からないが。)

そもそも甘川マウルも碑石マウルも、それこそ路地を歩けば家の中から洗濯機やテレビの音が聞こえてくるような住民の生活空間だ。そこに連日大勢の人が訪れてワイワイ写真を撮ったりすると、住民の中には騒がしくて迷惑だと思う人もいるだろう。甘川マウルでは、写真撮りたさに一部の観光客が民家の庭先まで入り込んでしまうケースもあったと聞く。

それでも甘川マウルの場合は 「감내카페」(カムネカフェ)のように、住民が運営に参加し収益金が住民に還元されるマウル企業(地元の企業)の成功例もある。カフェの建物は既存の建物をリフォームしたもの。地元住民らが作ったクッキーやパン、手工芸品などもカフェの一角で販売し、わずかでも地域経済の活性化につながっているという利点がある。

しかし、碑石マウルの場合、そのあたりどうなのだろうかと。かりに観光客がたくさん来るようになったとして、住民にとってのメリットがどれほどあるのだろうか。経済的に潤うわけでもなくただ騒々しくなっただけというのでは、住民たちもあまり歓迎しないだろう。もっとも、人がたくさん訪れて地域に活気が戻ればそれでよし、ということなら別だが。

住民たちがどう感じているのかは、実際に聞いてみたわけではないので分からない。賛否両論あるだろう。今後、甘川マウルや碑石マウルがどう変わっていくのか(あるいは変わらないのか)興味深い。


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