2015年03月31日
村の元気な子どもたち 2
つづき
村の元気な子どもたち(1952・戡蠻洞)(▼)。展示されていた多くの写真の中で、私が一番気に入った写真だ。腕白そうなこの子たちも今は60代後半ぐらいだろうか。

朝鮮戦争による避難生活時代、国際市場は臨時首都・釜山の経済的な心臓とも言える存在だった。その国際市場では何度か大火災が発生した。1950年12月24日に発生した火災では店舗61棟が焼失、2年後の1952年11月27日にも火災が発生した。そして、その悪夢さめやらぬ1953年1月30日に発生した大火災で、国際市場はまさに阿鼻叫喚の巷と化した。
火災は同日午後7時3分頃、国際市場内の 「春香園」 という酒場で発生。周辺の新昌洞、富平洞、大庁洞まで延焼し、家屋4,260棟が焼失、13,235人が焼け出される大惨事となった。この火災による被害は、臨時首都・釜山の経済にも大きな影響をもたらした。復旧作業は5カ月半後の7月中旬までかかったが、国際市場の商人たちは、火災から数日後には露天で商売を再開するなどした。
その後、国際市場は1968年1月、木造建築物3棟を除く9棟が鉄筋コンクリートの建物に改築された。1969年1月、社団法人国際市場繁栄会が設立され、1977年、正式に市場開設の許可を受けた。
大火災直後の国際市場(▼)。朝鮮戦争で焼け出され、避難先の釜山で今度は大火災で焼け出され・・・。絶望的な状況の中、それでもなんとかまた立ち上がったんだなと。

朝鮮戦争の休戦により政府がソウルに戻ってわずか3カ月ほどの1953年11月27日、釜山駅前大火災が発生した。戦争の廃墟を踏みしめ、生活を再建していこうという釜山市民の希望を飲みこんだ大惨事だった。
同日午後8時30分頃、瀛州洞の避難民村で発生した火災により、当時、釜山の繁華街だった40階段周辺をはじめ、東光洞、中央洞一円のほとんどが灰になった。釜山駅や釜山郵便局をはじめ、釜山日報社、釜山放送局など交通、通信、放送施設といった都市の中枢機能を担っていた施設が失われ、大混乱を起こした。
この火災で29人の死傷者と、約6,000世帯約30,000人の被災民が出た。火災の被害額を今日の価値に換算すると約1兆7,700億ウォン。駅前大火災の被害地域を撮影した航空写真(▼)。

宝水川中流で洗濯する様子(1952)(▼)。

松島海水浴場(1952)(▼)。現在の様子とは似ても似つかぬ・・・。

南川付近の写真もあった(▼)。いずれも1952年撮影。写真の中の風景が、今にその面影を残していないか探してみたが、全く分からなかった。

(▲)①南川洞の海女 ②白山から見た水営洞一円 ③南川洞のレンガ工場 ④南川里マウル ⑤南川洞レンガ工場の住宅 ⑥南川里の漁民のロープ巻き上げ作業 ⑦南川里住民によるワカメ採取。
航空機から見た水営飛行場(現・センタムシティ)(1959)(▼)。

いずれも非常に興味深い写真で見ごたえがあった。中には、チェ・ミンシク先生が撮影したものなど見覚えのある写真もあったが、ほとんどが初めて見るもの。この60年ほどで釜山がいかに大きく変わったか、あらためて驚きを感じた。
展示室の入口に、来場者が持ち帰れるよう絵葉書セットが置いてあったので、1部いただいて帰った。この展示会で紹介されていた写真の中から10枚入っていた。
村の元気な子どもたち(1952・戡蠻洞)(▼)。展示されていた多くの写真の中で、私が一番気に入った写真だ。腕白そうなこの子たちも今は60代後半ぐらいだろうか。
朝鮮戦争による避難生活時代、国際市場は臨時首都・釜山の経済的な心臓とも言える存在だった。その国際市場では何度か大火災が発生した。1950年12月24日に発生した火災では店舗61棟が焼失、2年後の1952年11月27日にも火災が発生した。そして、その悪夢さめやらぬ1953年1月30日に発生した大火災で、国際市場はまさに阿鼻叫喚の巷と化した。
火災は同日午後7時3分頃、国際市場内の 「春香園」 という酒場で発生。周辺の新昌洞、富平洞、大庁洞まで延焼し、家屋4,260棟が焼失、13,235人が焼け出される大惨事となった。この火災による被害は、臨時首都・釜山の経済にも大きな影響をもたらした。復旧作業は5カ月半後の7月中旬までかかったが、国際市場の商人たちは、火災から数日後には露天で商売を再開するなどした。
その後、国際市場は1968年1月、木造建築物3棟を除く9棟が鉄筋コンクリートの建物に改築された。1969年1月、社団法人国際市場繁栄会が設立され、1977年、正式に市場開設の許可を受けた。
大火災直後の国際市場(▼)。朝鮮戦争で焼け出され、避難先の釜山で今度は大火災で焼け出され・・・。絶望的な状況の中、それでもなんとかまた立ち上がったんだなと。
朝鮮戦争の休戦により政府がソウルに戻ってわずか3カ月ほどの1953年11月27日、釜山駅前大火災が発生した。戦争の廃墟を踏みしめ、生活を再建していこうという釜山市民の希望を飲みこんだ大惨事だった。
同日午後8時30分頃、瀛州洞の避難民村で発生した火災により、当時、釜山の繁華街だった40階段周辺をはじめ、東光洞、中央洞一円のほとんどが灰になった。釜山駅や釜山郵便局をはじめ、釜山日報社、釜山放送局など交通、通信、放送施設といった都市の中枢機能を担っていた施設が失われ、大混乱を起こした。
この火災で29人の死傷者と、約6,000世帯約30,000人の被災民が出た。火災の被害額を今日の価値に換算すると約1兆7,700億ウォン。駅前大火災の被害地域を撮影した航空写真(▼)。
宝水川中流で洗濯する様子(1952)(▼)。
松島海水浴場(1952)(▼)。現在の様子とは似ても似つかぬ・・・。
南川付近の写真もあった(▼)。いずれも1952年撮影。写真の中の風景が、今にその面影を残していないか探してみたが、全く分からなかった。
(▲)①南川洞の海女 ②白山から見た水営洞一円 ③南川洞のレンガ工場 ④南川里マウル ⑤南川洞レンガ工場の住宅 ⑥南川里の漁民のロープ巻き上げ作業 ⑦南川里住民によるワカメ採取。
航空機から見た水営飛行場(現・センタムシティ)(1959)(▼)。
いずれも非常に興味深い写真で見ごたえがあった。中には、チェ・ミンシク先生が撮影したものなど見覚えのある写真もあったが、ほとんどが初めて見るもの。この60年ほどで釜山がいかに大きく変わったか、あらためて驚きを感じた。
展示室の入口に、来場者が持ち帰れるよう絵葉書セットが置いてあったので、1部いただいて帰った。この展示会で紹介されていた写真の中から10枚入っていた。
Posted by dilbelau2 at 20:12│Comments(0)
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