2023年08月03日
七隈の菊池神社 2
つづき
賀茂駅から再び七隈線に乗り、次に降りたのは七隈駅。駅から徒歩2分のところに菊池神社というのがあると冊子に書いてあったので。賀茂神社より大きな神社だった。



元弘3年(1333年)3月11日、鎮西探題に攻め寄せた菊池武時は少弐氏・大友氏の離反によって敗死。馬上の武時は六本松付近で首が落ち、七隈でその胴体が落ちたといわれる。この際に胴体を祭った胴塚が七隈菊池神社の創始とされる。
その後胴塚は戦乱の最中に荒廃しいつしか忘れ去られていったが、天保2年(1831年)、菊池氏の末裔である福岡藩士・城武貞の建白により藩主・黒田斉清の認可を受け墓碑を建立。明治2年(1869年)、藩主・黒田長知によって墓碑地に社殿が建立。
・・・という、一度聞いたら忘れられないような由来があるそうだ。
境内には立派な巨木がいくつもあり、どれも大きく枝を広げていた。





神社の裏手には七隈菊池公園という公園があった。

公園から神社を見たところ。緑がいっぱい。一段高くなったところ(柵で囲まれているところ)が胴塚のあった場所らしい。中に石碑がある。


賀茂駅から再び七隈線に乗り、次に降りたのは七隈駅。駅から徒歩2分のところに菊池神社というのがあると冊子に書いてあったので。賀茂神社より大きな神社だった。
元弘3年(1333年)3月11日、鎮西探題に攻め寄せた菊池武時は少弐氏・大友氏の離反によって敗死。馬上の武時は六本松付近で首が落ち、七隈でその胴体が落ちたといわれる。この際に胴体を祭った胴塚が七隈菊池神社の創始とされる。
その後胴塚は戦乱の最中に荒廃しいつしか忘れ去られていったが、天保2年(1831年)、菊池氏の末裔である福岡藩士・城武貞の建白により藩主・黒田斉清の認可を受け墓碑を建立。明治2年(1869年)、藩主・黒田長知によって墓碑地に社殿が建立。
・・・という、一度聞いたら忘れられないような由来があるそうだ。
境内には立派な巨木がいくつもあり、どれも大きく枝を広げていた。
神社の裏手には七隈菊池公園という公園があった。
公園から神社を見たところ。緑がいっぱい。一段高くなったところ(柵で囲まれているところ)が胴塚のあった場所らしい。中に石碑がある。
Posted by dilbelau2 at 09:09│Comments(0)
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